痣のある女

夜風の冷たい春先に深夜残業が続くと、ふときみを思い出す。

小田急線の南新宿駅で、タクシーを拾うまでのつかの間、抜くか寝るかで悩んで家とは逆方向を運転手に伝える事が多かった、数年前のこと。

 

コマ劇の辺りをぐるぐると、さも用事があるかのように歩いて、人の気配が消えたとたんに携帯を取り出し「90分コースで」と伝える。

 

60分だと自分は早漏なので、少し変な時間が残る。90分あれば、調子のいいときは二回出来る。

 

ちなみに、60分の余った時間は話そうと思えば、別に話せない訳じゃない。熱いリビドーを感じている僕にはそれは億劫でしかないだけのことだ。

 

ぼろぼろのラブホテル。ラブホテルと言えないような古めかしい外観で、お世辞にも綺麗とは言えない、二丁目のホテル。部屋へ入るなり僕はタバコに火をつけて、部屋の証明を落として、靴下を脱いで足を洗う。嬢に臭いと思われたくないからだ。

 

そして、歯を磨く。夕飯に食べた焼肉弁当の匂いを知られたくないから。

 

そして、カバンに忍ばせたブレスケアを多目に飲んで、クロレッツで息をリフレッシュさせる。

 

普段ならこの行程を終える前の歯磨き中にノックされるのだけど、この時は来なかった。誰が来るのかな。フリーで入ったから分からない。一人ずつしらみ潰しに写メ日記を見て心を高めていく。一通り見終えて、もうだいぶ時が過ぎた。もう一度、この子だといいなとひとりの嬢のページを見ていた時にノック音が響く。

 

もう何度も風俗に行っているがこの時だけは未だに慣れない。

 

そこに君は立っていた。この子がいいなと思っていた嬢。会いたいと思っていたよ。性感帯も、初体験が17歳なことも、血液型だって知ってる。趣味は料理ってこともね。

 

写メ日記で学んだ内容が、鮮やかに頭を巡る。これまで幾多のパネマジを経験してきた僕も、今回ばかりはほぼ修正のないきみのルックスに見とれた。

 

ちょっとぷっくりした頬、ちょうどいいおっぱい、くびれたウエスト、白い肌。パステルカラーのカーディガンに、かわいらしいシャツ、ロングスカートとブーツ。当時、割とよく見る格好だったのに、不思議と、とても上品で、天使にさえ見えた。

 

「こんばんは。」

きみの可憐な声が心地よく響く。

「オッス、今日はさみぃなぁ!」

いつもの自分では絶対言わない、おっさんのような挨拶をしてしまうほど、僕は気が動転していた。

 

「あっ!」

 

入り口でつまづいたきみを抱えた時に香った、シャンプーの香りは、今も僕は忘れられない。

 

事務的なやり取りを終えて、服を脱がしてくれたきみ。間近で見ると本当にかわいくて、いい匂いで、ドンピシャにタイプだった。

 

早くも爆発しそうな自分のそれを見て、きみは「えー早くない?」といたずらっぽく笑った。

 

今度は僕が脱がせる番。カーディガンをたたんで、ゆっくりブラウスのボタンを外す。

その時は気がつかなかった。あんまり見ないで、という言葉もその時の僕にはガソリンを注ぐものでしかなかった。高校時代に人知れず考えていた、この子だったらエッチしてもいいという謎の上から目線の基準を楽々クリアする子に、卒業後いたずらしているような感覚で股関は更に膨れていった。

 

 ワールドイズマイン。

まるで、その言葉が自分のためにあるような、気がした。

 

「ちょっと待っててね」

 そういってきみは浴室へ向かう。

背中にポツポツ見える点が、浴室の明かりで見えた。

 

「いいよ」

呼ばれて浴室へ入った僕は愕然とした。

彼女の背中には無数の痣があった。

 

呆然としていると、嬢が察したのか、大丈夫だから大丈夫だから、と繰り返した。

 

多分日常的に暴力を受けているのだろう。

かわいそうに。その上、こんな仕事までさせられて、辛かったろうに。

なんだか僕は、彼女を守りたいと思って裸のまま抱き締めた。

 

大丈夫だよ、大丈夫だよ、彼女を落ち着かせるように僕も囁いた。

 

こくりと小さく頷く彼女はとても愛らしく、またふわりとシャンプーの匂いがほのかに香る。痣はあれども、小さなその身体は温かく、女性らしい柔らかな肌をしていた。

 

 大丈夫だから・・・。何故か分からないけれど、そう呟きながら僕は泣いていた。

気色悪い客だと思われたかもしれない。

でも、ひとりの男として彼女を包んであげたかった。

 

彼女もまた、涙ぐみながら、ありがとうと言った。

 

しかし、身体は正直である。

この優しい心の通い合いの最中も僕の息子は全力で勃起していた。

 

その異様な雰囲気に、僕らは笑った。

 

燃えた。

なんかよく分からないが、昔読んだ2ちゃんのスレで、暴力彼氏から風俗嬢を守る話の主人公になったような気分だった。

 

 一抹の背徳感を感じながら、僕らはセックスをした。分かってる、本番は禁止だ。でも、それはもう、日常では味わえないほどの気持ちよさだった。

 

外が寒いから、と付けていた暖房のせいで、ふたり汗だくになりながら、抱き合った。

 

タイマーが鳴っても彼女は僕から離れなかった。ピピピピッピピピピッという警告音が部屋に鳴り響く。彼女は今日はもうあなたが最後だから、お店に怒られちゃうけど、まだいいや、と笑ってタイマーを止めた。

 

そして、僕らは身の上話をした。

普段、僕はテレビ局勤務と職業を偽る。もともと僕の夢だった仕事だ。風俗に行く時くらい、理想の自分でいるために。が、この時だけは、気がついたら本当のことを話していた。あるアプリの企画を担当していること。

引っ越しをしようとしていること。そして、今度犬を飼おうと思っていること。しまった、と思ったけれど、もうそんなことはどうでも良かった。

 

 彼女は、同じ小田急線の神奈川寄りに住んでいること。身バレを少しでも避けるために新宿で働いていること。そして、出勤日は、四ッ谷のビジネスホテルに泊まっていること。

お父さんが高校卒業の前に死んで、そこからお母さんが病気になってしまったこと。お母さんの看病のために自分で学費を稼ぐために風俗で働きだしたこと。結局体力が持たずに、大学を辞めてしまったこと。本当は獣医になりたかったということ。色々投げたしたいけど、大好きだったお母さんを見捨てることがどうしても出来ないということ。

 

どこまで本当のことかは分からない。そもそも風俗嬢の話なので、全部嘘かもしれない。でも、暴力の話はさすがに言わなかったけれど、彼女の話は妙な臨時感があり、多分本当のことも少しは含まれていたんじゃないかと思う。

 

彼女は、「いつか行ってみたいな、新しいおうち。」と僕に言った。僕は、「そうだね、いつか。」と答えた。でも、それは実現しない「いつか」であることは明白で、それ以上僕は踏み込むことができなかった。

 

「また会えるかな?」僕が聞くと、携帯教えようか?と言われた。

 

でも聞いてしまったら、営業電話をしてくる彼女などを見てしまう気がしたので、その場では交換せずに紙に書いてもらった。

 

そんなの普通の営業のやり口だよ、と風俗経験者は言うかも知れない。でも、そんな野暮なことは言わないで欲しい。僕はまだ彼女をどこかで信じているのだ。

 

そして、僕らは再び抱き合った。

何度も何度もキスをした。

KinKi Kidsが硝子の少年で歌ったような一説のように、唇が腫れるほどに。彼女の携帯はずっとなり続けていた。多分お店だろう。僕は、彼女を拘束したと疑われて、ブラックリストに載ってしまうかもしれない。

 

手を繋ぎ、エレベーターでも抱き合いながら、フロントへ向かった。

 

鍵を渡して、また抱き合おうとしたとき、フロントの婆さんがしわがれた声で僕に叫んだ。

 

 

 

 

「ちょっとお兄ちゃん、延長3000円だよ」

 

当時の安月給で、追加コストは手痛かった。

彼女も、ごめん、私も出すよと言ったけど、売上金に手をつけたら、更に彼女が怒られてしまう材料を作ってしまうから、それは断って支払いをした。

 

バイバイ、またね。絶対連絡してね。

 

耳障りのよい彼女の声が二丁目の喧騒にかきけされていく。

 

外は、雨が降りだしていた。

僕は傘もささずに、いつまでも彼女の後ろ姿を見ていた。翌週の給料日まで、モヤシとスティックパンで凌げるかなぁとぼんやり考えながら、パステルカラーのカーディガンが、傘の群れに飲み込まれるまで。

 

 実はこの話には後日談がある。

それはまた今度書き記そうと思う。